ジブン40年史 - 私の歩み -

ジブン40年史 – 私の歩み – 【9】固く決められた将来への決意。

雨森武志

雨森 武志

UPDATE 2020.01.22

勉強はまったくだが、部活に力を入れながら、人並みに恋愛もする。高校に入ってからも、わりと充実した毎日を送っていたように思う。しかし、生活に決定的に足りなかったものがあった。それは、バンド活動である。

2本のスティックとともに過ごした青春時代。

中学の最後に組んだバンドは、正式に解散したわけではなかった。しかし、メンバーの一人が地方の高校に行ったこともあり、集まることも音を出すこともできない。特にドラムである私は、ギターやベースと違って、実際の楽器を使った練習すらままならない状態だった。

そこで、高校2年の時に、一大決心をする。関西で発売されているファッション・カルチャー誌である『カジカジ』にあるバンドメンバー募集コーナーに掲載されていたとあるバンドにコンタクトを図ってみることにした。細かいやりとりは覚えていないが、中学時代にコピーしたことがあるバンドの名前などを書いた手紙を送った記憶がある。

返事はすぐに返ってきた。面接的な顔合わせを経て、晴れて『THE RUDE HOUSE GEM BEAMS』という癖の強い名前のバンドに加入することとなる。ボーカルは高野さん。見た目は“ザ・バンドマン”という感じで、腕にタトゥーがあり、髪には緑色やピンク色のメッシュが入っている。しかし、見た目とは違っておっとりとした性格で、とても優しい人だった。ギターは和田さん。こちらは外見に派手さはなかったが、バンドの中心的なメンバーである。2人とも私の7つ上だった。ベースは板井さん。この人はもう少し年が近く、加入したばかりらしい。すでにオリジナルの曲が何曲もあったようだが、メンバーが入れ替わるということで、とりあえず、マッド・カプセル・マーケッツの「神歌」と「WALK」の2曲をコピーすることから再始動することになった。

いつも練習で使っていたスタジオは、高校のあった十三から割と近い天神橋筋六丁目というところ。部活の後、学ランのままそこに向かう。練習が終わったら、スタジオの向かいにあった餃子の王将で夕飯を食べたり、近くに住んでいた高野さんの家にいって、ギターの和田さんがつくってくる新しい曲のデモを聞いたりして、解散。帰りは定期券のある十三駅まで、和田さんが車で送ってくれる。そんな生活だった。

和田さんはとにかく音楽に詳しく、十三駅へと向かう車中で、たくさんのバンドを教えてくれた。デビューしたばかりのドラゴンアッシュや、ナイン・インチ・ネイルズなどを知ったのは、その時である。当時フリーターをしていた彼は、私のサッカー部の練習や試合がない休日に、日雇いのバイトにも誘ってくれて、その流れで家にもお邪魔させてもらった。そこには、数千枚はあっただろうか。いや、“万”の単位だったかもしれない。驚くほどの枚数のレコードやCD、さらにMTVを録画したVHSのカセットが壁一面に並んでいる。そんな和田さんの生活に、高校生だった私は強い憧れを抱き、なんとなく自分もこんな大人になるのかな、なんてことを思っていた。

ここまでを読んで、ピンと来る人はさすがにいないだろうか。この和田さんという男性。今や音楽好きの中では説明不要の存在、『フレークレコード』の店主、DAWAさん()である。彼とはその後2年ほど一緒にバンド活動を行い、そこからも、さまざまなカタチでつながりが続いている。

中学を卒業してから1年ほどのブランクを経て、やっと念願のバンド活動を再開できた日々は、とても充実したものとなる。曲をつくり、ライブをする。ブッキングマネージャーにアドバイスを受ける。いいイベントに入れられて、メンバー全員で喜ぶ……。そんな生活を続けていた。当然、人気のバンドだったわけでもなく、ギャラが出ていたわけでもないが、彼らとともに音楽をつくり、奏でることに夢中だった。

DAWAさんには、3年ほど前に、別のメディアで取材をさせてもらいました。

こんなこともあった。高校2年の時に、神戸のスタークラブというところでライブがあった日。6時間目まで授業を受けてから学校を出ていては、入りの時間に間に合わない。もちろん、こっそりと午後の授業をサボることも考えたのだが、今後も同じような状況が訪れることも想定できたので、中井先生という当時の担任に、正直に申し出ることにした。

化学の教師だった中井先生は、とても柔らかい雰囲気の人で、私の話を聞いた後、すぐに「わかった。この高校の生徒では珍しいことだけれど、君が音楽という夢を追っているなら、授業を休んで行ってきなさい。あと、これからもそういうことがある場合は、無断で欠席せずに、先生に報告しなさい」と言ってくれた。

このバンドの写真としては、唯一のこっているもの。たしか『心斎橋SUNHALL』でのライブです。和田さんは写っていませんね(笑)

さて、和田さんたちとのインディーズバンドとしての活動に加えて、高校の友人たちとも、いわば“趣味”レベルでバンドを楽しんでいた。印象的なのは、高校3年生のときの文化祭だ。同級生が集まって組んだバンドで、アメリカのロックバンド、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(以下、「レイジ」)のコピーをすることになる。高校に入学した頃は、私以外にレイジを聴くような同級生は皆無だったが、少しずつ友人たちを染めていき、その結果、自分の好みの音楽をやれるようになったわけだ。

このバンドを知らない人に向けて説明をするのに適した、象徴的な出来事がある。2001年にアメリカ同時多発テロが起きた後、ジョン・レノンの「イマジン」やレッド・ツェッペリンの「天国への階段」といった名だたる曲が、アメリカ全土で放送禁止となる中、唯一「全曲が放送禁止」と指定されたのが、レイジである。それくらい、思想性や政治的メッセージが強く、反権力や反体制を体現するバンドの代表格として、世界的に知られている。私も中学の時から大ファンだった。

その文化祭では、ステージの演出も私が1人でおこなった。ライブ会場となるのは、学校の視聴覚室。その壁に大きな模造紙を貼り付け、実際にレイジがそうしているのと同じように、アメリカの国旗や、キューバの革命家であるチェ・ゲバラの肖像画などを貼る。さらに、「Fuck The Norm」「Justice has not been done」などと、レイジの歌詞の中から、キャッチーなフレーズを書き連ねた。

後ろに書き殴られている英語が、すべて私の手書き。気の遠くなるような作業量だったと思われます(笑)

レイジが伝えようとしていたことは、言ってみれば、各界にエリートを輩出しつづけ、偏差値教育の中枢に存在している北野高校のような教育機関のありようを否定するものでもある。そんなバンドのコピーをして、観客はモッシュ&ダイブで大盛り上がりだった。すこし大げさなのを承知の上で言うと、もしかしたらあれは、長くつづいてきた北野高校の歴史が、少しだけ動いた瞬間だったのかもしれない。

ちなみにその文化祭には、どこから聞きつけたのか、私のドラムを見に来ていた人が何人かいたようで、ライブ後、まったく知らない2人から「一緒にバンドを組んでくれないか」との申し出があった。そのオファーは2つとも断っている。

そう。この頃、もう心は決まっていた。確かに進学校である北野高校には、同じような夢を持つ仲間は少ない。しかし、「自分には、音楽の道しかない」という思いは、すでに揺るぎないものだった。結果的にそれは実現してはいないのだが、私の音楽人生は、あと何年かこのまま進んでいく。

(つづく)

Editor’sNote

雨森武志

雨森 武志

言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書

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本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」 自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、たぐい稀な人間ドラマが見つけられる。

参照元 https://www.amazon.co.jp/

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