高校時代の思い出。そのほとんどは、バンドやサッカー、そして友達や恋愛に関わるものだ。しかし、もう一つ、忘れられないものある。それに紐付かせて、今回は少し趣を変えて、両親の話をしたい。
お盆と正月の年に2回。脳裏に焼き付く辛い光景。
その忘れられない思い出とは、高校3年生の時、三者面談が行われた日のことだ。母が学校に来て、担任だった野口という女性の先生と私を含めた3人で話をする場である。すでに書いた通り、私は音楽の道を志しており、そのための “モラトリアム”がほしいことを理由に、また「高卒」という学歴を背負うまでの勇気もなく、大学進学を希望する旨を伝えた。当時、母との会話は皆無で、とうぜん将来の話などもしたことがない。私が抱く将来への展望を、母はその場で初めて耳にしたはずである(とはいえ、バンドばかりしていたので、なんとなくは察していたかもしれません……)
野口先生はその場で、自分だけの考えを突き通そうとする私に対し「でも、将来のことは、ご両親とも相談して決めないと……」というアドバイスをくれた。そこで私はこう返したのである。「でも、うちは、父と母が不仲で、家族自体にも会話はないし、自分で決めるしかないから」。隣で母は、ただただバツが悪そうに苦笑いをしていたと思う。
その日の夜。父以外の家族が食卓を囲んだ夕食時に、事件は起こる。母は2人の姉に対し、私をからかう調子で、その日の話をはじめた。「ターくん(=筆者)なんか、先生に向かって、『お母さんとお父さんが仲が悪い』とか言うねんで。お母さん、ほんまに恥ずかしかったわ……」と、笑っている。その言葉を聞いた私は、叫び狂うように、怒りをぶちまけた。当時、家族の誰とも会話をすることなく、感情を出すこともなかった私のその姿に、一瞬にして、食卓の空気が凍りついたと記憶している。
そう。私の父と母は、絶望的なまでに仲が悪かった。ただ、離婚はしておらず、こうしている今も一緒に暮らしている。私が物心がついたときにはすでにそんな状況だったので、私は父と母が会話をしているのを見たことがなく、また例えば、家族で外食をしたり、買い物にでかけたり、といった記憶もない。もちろん、世の中には同じような家庭がいくらでもあることも知っていたし、もっと過酷な環境で育つ人がいるのもわかっている。しかし、小さな頃は、それがとても嫌だった。年の離れた姉は割り切っているように思えたが、私はどうしてもそれができない。例えば友人の家でお父さんとお母さんが仲良くしている姿を見ると、その友人に対して「自分にはない要素を持っている人なんだ」と、いらぬ引け目を感じていた。
そういった環境も関係したのか、中学生になった頃から、父や母と会話をすることがなくなり、そもそも家の中で私が言葉を発することすらなくなっていった。父と母、それぞれが嫌いなわけはない。むしろ、小さな頃から、父のことも、母のことも、好きだった。しかし、どうしても気持ちの折り合いがつけられず、また照れくささもあったのか、思春期の間、ずっとそんな関係がつづいた。
話を高校3年の食卓に戻そう。つまり、当時の私は、両親の不仲のせいで、本来、感じる必要のないネガティブな感情を背負わされている被害者だと思い込み、そういう面では、両親を憎んでいた。その前提において、言わばその加害者である母自身が、その事実を笑い話にしたことが許せなかった。高校3年にもなって、泣き叫んでいた。私の訴えを聞いて、さっきまで和やかに母と話をしていた姉も泣いていたように思う。
その日の夜、めずらしく姉が私の部屋に入ってきて「ターくんが辛いのもわかるけど、お母さんにあんなん言ったらあかんやん。お母さんだって辛いんやから」とたしなめられた。「うん。わかってる。悪いことをした」と、姉を前にして、その場でもまた泣いてしまったのを覚えている。
父、清志は、明るく、とても優しい人だ。夫婦が不仲になる場合、得てして、夫が浮気性だったり、ギャンブルにはまったり、酒癖が悪かったり……といった原因が想像できるが、まったくそんなことはない。仕事に真面目で、人並みにお酒は飲むが、タバコや女遊びなどはせず、パチンコやゴルフといった趣味もない。私の成長だけが楽しみのような人で、毎週のようにサッカーの試合を観に来てくれていた。ただ、人付き合いという点においては、とても不器用だったように思える。
幼少期、お盆休みとお正月には、父の実家がある高知県に車で帰省するのが恒例行事だった。私が本当に小さかった頃は、母や姉も一緒だった気がするが、小学校にあがった頃から、父と2人だけになっていく。瀬戸大橋も明石大橋もない時代。大阪から四国へは、フェリーを使って行くしか方法がない。片道約7〜8時間はかかる長旅だったが、大好きな父との移動は、とても楽しかった。
そんな中、忘れられない光景がある。それは、祖父母の家で数日間すごし、大阪へと戻る最終日に毎回見られるものだった。車に荷物を積み、最後の挨拶をしようとするその時のこと……、
父は、当時すでに寝たきりの状態になっていた祖父にしがみつき、泣いていた。
私は、理由はわからないが、それを「見てはいけないもの」と認識して、いつも他の部屋にいるようにしていた。しかしギリギリ聞こえるか聞こえないかくらいの感じで、涙まじりの2人の会話が耳に入ってくる。そこで父は、大阪と高知という物理的な距離もあって、寝たきりの祖父の看病ができないことを詫び、また自身の妻である私の母との関係がよくないことを悔いるような話をしていた。寝たきりの祖父も、ベッドの上で泣いていたと思う。
だいぶ後になって知ったのだが、私の両親と同じく、祖父母の仲も悪かったらしい。そんな中、祖父は寝たきりになってしまい、決していい関係性ではない祖母に、下の世話までしてもらっていた。おそらく父は、そんな状況にも関わらず、自分が手を差し伸べられない歯がゆさや、自身もよい夫婦仲を構築できていない不甲斐なさなどに苛まれていたのだろう。小さな子どもにとって「父親が泣いている」という光景は、とてもインパクトが大きかった。
その“別れの儀”が済んだ後、2人で車に乗る。父は鼻をすすりながら無言で運転をしていたが、10分ほどすると、いつもの明るくて優しい父に戻り、小さな私におどけるように接してくれた。
その後、前述の通り、中学生になったあたりから、父と話すこともなくなっていったが、それでもたまに車に乗せてもらうタイミングなどで2人きりになると、父は照れくさそうに話をはじめ、母との仲が悪いことを私に詫びてきた。そして「お父さんとお母さんを反面教師にして、お前はいい家庭をつくれ。お前は勉強もできるし、女の子にもモテるから、必ずできる」といつも同じアドバイスをくれる。そのたびに、私はいたたまれない気持ちになり、涙をこらえるのに必死だった。
両親の仲が悪いことで幾度となく感じてきた恥ずかしさやコンプレックス。それが故に、どうしても両親を許せない気持ち。それと同時に、父が私たち子どもたちに対して抱いていたであろう罪悪感や引け目をすべて捨て去って、もっと前向きに生きてもらいたいという気持ち。思春期の間、その互いに矛盾する2つが、ずっと私の心の中に同居していたと思う。
母、由美も、父に負けず劣らず、優しい人だった。この連載のはじめの方で書いた通り、体の弱かった私にずっと付き添ってくれたのが、母である。そして、努力の人でもあった。彼女は、たしか40代後半になってから介護の勉強をはじめ、資格を取得し、さらにその仕事に必要ということで車の免許もとり、仲の良かった知人とともにボランティア活動をスタートさせ、さらに数年後、自治体の援助を受けて、起業までした。そのまま役員として20年以上にわたって介護の仕事を続け、たしか昨年、ついにリタイアしたようだ。
学生時代に、クラスに何人かいるような、“若くて、かっこいいお母さん”ではない。ただただ、自分の子どもを愛し、また、何歳になっても子ども扱いをする。基本的には、どこにでもいる“THE お母さん”と言えるような人だ。
一度、こんなことがあった。大学1年生のとき、友人と夜通しで遊び、始発に乗って最寄りの阪急箕面駅に戻ってきた時のこと。まだ朝の6時くらい、当時、早い時間から介護の勉強で資格の学校に通っていた母と、駅のホームでばったりと会った。とうぜん私は「おぉ」と小さな声を出すだけ。いっぽうの母は……
あんた、お鍋に大根、あるで! それ、食べや!!
バカでかい声をかけてきた。まだ早朝ではあるが、駅のホームには、他の乗客もいる。しかも当時の私は、すれ違う人みんなが二度見するくらいの大きなアフロヘア。おそらく派手なネックレスやサングラスなどもしていたように思う。そんな私に「大根、食べや」と大声をかける母。恥ずかしくも、愛すべき存在である。
時代的な背景もあり、自身の介護の仕事が割と軌道に乗っていったのだろう。すこし余裕ができたのか、私が成人してから、彼女は知人と一緒に、よく海外旅行に行っていた。私が小さな頃は、父との関係が悪くなり、また私の喘息などで心労も重なって、円形脱毛症に悩んでいたことも知っている。そこから約20年。だいぶ時間はかかったが、今ではたくさんの孫に囲まれ、割とゆとりのある幸せな生活を送っているような気がしている。これほど嬉しいことはない。
父と母の関係は、もちろんその後も何も変わらず、今も、互いに話をすることなく、たまに口を開くと、憎悪の念のぶつけ合い。そんな状態のまま、一つ屋根の下で暮らしている。その状況に私が慣れることはなく、今でも心が苦しくなる。
今年、父は77。実は少し前から認知症が出始めている。おそらく母は、最低限以上のサポートをしないだろう。これは、私たち姉弟に課せられた大きな課題のひとつで、当面、絶対的な解決策も見いだせずにいる。とはいえ、人生100年時代。どうか2人とも、まだまだ元気で暮らしてほしい。
この連載でも、私の人生の岐路となるタイミングで、あと何度か、両親が登場することになると思う。この前提で読んでいただければ、また印象が変わるのではないだろうか。
(つづく)
Editor’sNote
言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。