突然の大雨と雷鳴の中、父の背中にしがみつき、帰路についた。おそらく日曜日だったんだろう。父と一緒に自転車にのり、近くのたんぼまでカエルをとりに行った時の話だ。これが人生の最初の記憶。
優しい両親と2人の姉。どこにでもある平凡な家庭に生まれ育ち……
場所は大阪府の北部に位置する池田市。後にプロ野球で活躍する中村紀洋氏が在学中に、甲子園への出場を果たし、その知名度をあげた渋谷(しぶたに)高校のすぐそばが、私が住んだ最初の家だ。3歳の時に隣接する箕面市に引っ越ししたらしいので、この雨の日の記憶は2歳、もしくは3歳。後から聞くと、父親もその日のことは覚えていた。
1980年4月24日生まれ。学生時代に傾倒することになるレッド・ツェッペリンの伝説的ドラマー、ジョン・ボーナムや、ジョンレノンが死んだ年に、私は生まれた。同じ学年にあたる有名人には、玉山鉄二、妻夫木聡、嵐の大野智、V6の岡田准一、EXILEのATSUSHI、高橋一生、ディーン・フジオカ、又吉直樹、キングコングの西野亮廣、平成ノブシコブシの吉村崇、フルーツポンチの村上健志、小島よしお、優香、広末涼子、松坂大輔、朝青龍、田臥勇太(すべて敬称略)……などがいる。後に「松坂世代」と呼ばれる年だ。
サラリーマンの父、当時は専業主婦だった母、2人の姉。おしゃれでもなければ、ボロボロでもない2階建ての一軒家と、高級でもなければ、みすぼらしいわけでもない車。裕福でも貧乏でもない、どこにでもありそうな普通の家庭だ。年子の姉は、8歳上と7歳上。年が離れていたせいか、小さなころはいわゆる兄弟喧嘩をしたことはない。久しぶりに追加された新しい家族に、みんなが優しかった。
何より、小さな頃は、父のことが好きだった。父も全力で私のことをかわいがってくれていたと思う。あまり詳しくは知らないが、父はフジフィルムに関係する小さな会社に勤めていたようだ。その関係なのか、会社には当時ではわりと特殊な印刷機があったようで、雑誌などから切り抜いたお気に入りの写真を父に渡すと、それをラミネート加工に近い仕上げを施して、ノートにはさんで使う下敷きを作ってきてくれた。小学校の頃、当時(今もだが)大ファンだった三浦知良選手の写真で、10枚以上の下敷きを作ってもらった記憶がある。次の日、それを学校に持って行くのが誇らしかった。小さなころ、父の会社に行く機会があり、デスクのまわりに私の写真が何枚も貼ってあったことを覚えている。
休日もいつも父と一緒。3歳から大人になるまでを過ごした箕面市は、先述の池田市と同じく大阪の北部、山麓にある街で、市内のどこにいても北を見れば山が見える。紅葉の名所でもあり、秋になると、観光客でごった返した。
その山を登っていくと、知る人ぞ知る湧き水がでるスポットがあり、休みの日は早朝から多くの人が並んでいた。日曜の朝には大きなタンクを車に積み、父と1週間分の飲み水を汲みに行く。車の中で父と話をするのが楽しかった。
どこにでもある、平凡で穏やかな暮らし。そう見えないこともない。しかし現実は、少しだけ違っていた。小さな私を執拗に苦しめた存在がいる。小児喘息だ。豪雨の中、父の背中にしがみついた最初の記憶の次。人生で2つ目の記憶は、その喘息に紐付く、嗚咽が出るまでに、苦しいものになる。
(つづく)
Editor’sNote
言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。