複数回にわたって高校時代の話が続いているが、最後にもう少しだけお付き合い願いたい。学生の本分である勉学の話もしておこう。前回までに少し書いたと思うが、勉強に関しては、本当にからっきしの状態。しかし、バンドで成功するという夢しかなかった私は、成績に関してなんとも思っていなかった。
ジミヘンとレッチリ、そしてすべての洋楽にありがとう。
通っていた北野高校は、前述の通り、大阪でも有数の進学校だ。しかし、当然ながらその中でも、勉強ができる子・できない子が分かれてくる。だいたい下から1〜2割くらいに位置する生徒は、みんな「俺は最下位だ!」などと、むしろ自慢げに話していた。しかし、なめてもらったら困る。こっちは“本物”だ。高校3年生のはじめに行われた実力テスト。その結果表にははっきりと「397人中397位」と書かれていた。学年でただひとり。正真正銘の最下位は、他の誰でもなく、私なのだ。
ただ、そんな結果はどうでもよかったので、すぐに近くにあったゴミ箱にその紙は捨ててしまった。それを下級生の女の子が拾ってきて「これ、もらってもいいですか!」なんて、声をかけられたこともよく覚えている。さらにラグビー部の顧問で、割と親しくしていた大田という先生に「お前が音楽の夢を追ってることは知ってる。たださすがにベベ(=最下位のこと)はまずいぞ」なんて、アドバイスもされた。
そんな状態で3年間を過ごしていたが、唯一まわりについていけたのが、英語である。他の教科と同じく、特に勉強をしていたわけでもなく、また得意だという意識もなかった。しかし中学から洋楽だけを好み、しかも必ず歌詞と対訳を見ながら聴くという習慣があったことが、功を奏したとしか思えない。
こんなことがあった。高校3年生のとある英語の授業。定期テストが返却される日のことだ。細かくは覚えていないが、「万が一に備えて」「いざというときのために」といったニュアンスの熟語を答える問題に対し、私は「for your rainy day」と解答し、不正解にされていた。おそらく授業で習ったものとは違ったのだろう。
ご存知の方もいるかも知れないが、これはギターの神様、ジミ・ヘンドリックスの名曲「fire」の歌詞にある一節である。私は原曲ではなく、当時大好きだったレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下、レッチリ)のカバーバージョンを、いつもの通り歌詞カードと対訳を見ながら聴いていたことで、覚えていた。
そこで、先生に直訴することを決める。相手は、校内きってのカタブツとして名を馳せ、生徒たちからも恐れられていた中田という英語教師。私はレッチリのCDと歌詞カードを持って行って、該当の箇所を指しながら「これでも正解ではないか?」と訴えた。すると中田先生は、それをじっくりと見つめ「そうだな。いい勉強法だ。ごめんな」とすんなりと丸をくれた。どんな時でもムスッとした表情をしていた彼が、私が抗議をしている間、ずっと嬉しそうな顔をしていたことをよく覚えている。
もし、これを読んでいる親御さんで、自身の子どもの英語の成績を上げたいと考えている人がいるとすれば、歌詞カードと対訳を見ながら洋楽を聴くやり方をオススメする。
さて、そんな調子で、一切の受験勉強をせずにセンター試験を向かえる。一緒に会場に行ったのは、小学校からの友人、カドだった。当然、結果は散々たるもの。5教科の合計が、406点か408点かのどちらかだった。この数字は、もしかしたら歴代の北野高校生の最低点かもしれない。特に数学は2つ(数Ⅰ・Aと数Ⅱ・B)を合わせても、30点に届いていなかったはずだ。ちなみに、私はそのまま浪人生となるのだが、予備校の10月時点でのセンター模試でも、450点を切っていた。ひどい話である。(幸いにも1ヶ月後の模試では、200点近く上がったのだが……)
“勉強できない自慢”は、不毛で、ダサい。それは分かっている。だからここで言いたいのは、それくらい成績が悪くても、何も問題なく大人になれるということだ。もちろん「私をお手本にしろ」とは到底言えないが、同じ北野高校の後輩に、そして受験を控えてナーバスになっている高校生に、そんな子どもを持つ親御さんに伝えたい。受験の点数が悪くても、何も悲観的になることなどない。
待っていたのは、むしろ楽しい1年間。
さて、浪人の1年間にも、すこしだけ触れておこう。選んだのは、ECC予備校の梅田校。今はなくなっているらしいその予備校を選んだ理由は、北野高校の卒業生というだけで、学費が圧倒的に安くなるからだ。しかし、その資格を得るためには、センター試験の点数を報告しなければならない。私は、担任だった野口という女性の先生にお願いし、200点近く下駄を履かせて、捺印してもらった。それがどれくらい悪いことなのか分からないが、もう時効だろう。
「浪人生」と聞くと、一般的には、一切の楽しいことから距離を置き、ただただ勉強に打ち込む暗い1年間というイメージがあるかもしれない。しかしECC予備校で過ごした時間は、よくも悪くも、まったくそんなことはなかった。
私は引き続きバンド活動に精を出していたし、引っ越しのアルバイトもしていた。予備校での飲み会も定期的に行われたし(未成年であることは……これも時効で!笑)何よりこの時期にはまったのがビリヤードだ。朝、家を出て、予備校のある梅田駅に着き、そのままお初天神商店街の端っこにあるビリヤード場へと向かう毎日。今も数少ない趣味としてビリヤードをやっているが、きっかけはこの頃にある。
また生涯を通して付き合える仲間たちに出会えた時期でもあった。同じクラスで特に仲がよかったのが、廣瀬くんと吉田くん。2人とはその後も深いかかわりを持ち、弊社サイトの対談にも登場してもらっている(廣瀬くんの記事 / 吉田くんの記事)。また大学も同じで今も交流がある豊川くんや、東京で何度か会い、仕事の相談などもしている東堤くんとも同じクラスだった。豊川くんはフリーランスとして、その他の3人は私も含め、みんな経営者となっている。さらに、違うクラスにいた藤田くんともとても仲よくなった。彼とは予備校を卒業して約10年後、とある縁から、数ヶ月だけだが同じ家でシェア生活をすることになる。それはまた後の話。
そんな浪人生活を送った結果、当然、志望校に受かるわけもなく、私は関西学院大学に入学することとなった。そこは一度も「行きたい」と思ったことのない大学であり、社会学部を選んだのも、地理で受験できるという理由だけ。当時もそうだったし、今もそうだが、関西学院大学には何ひとつ思い入れがない。自分がその大学の出身者であることも、ふと忘れることがよくある。
できれば国公立に。お金がかかる私立になるなら、奨学金を借りるだけ。大学は、どこでも、なんでもよかった。そんなことより、ただ早くバンドに打ち込みたい。それだけが私の思いだった。
(つづく)
Editor’sNote
言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。