みなさん、こんにちは。アイタイスの雨森です。
先ほど配信されたメルマガにも書きましたが、2024年になってから、これまでにないレベルの繁忙期となっており(ということもずっと思っているような気がしますが)、たくさんのクライアントの方々に迷惑をかけ続けております。
もうキャパオーバーなのは歴然で、スケジュールもこぼしてばかり。あとは「どのクライアントに謝るか」を選ぶだけ、みたいな状態です。よくないですね。
相変わらずこのコラムも「あと数時間で配信」という夜中に執筆中。本日は出張なので、大阪のアパホテルでパタパタとキーボードを叩いております。
ということで、先に連絡事項を書いておくと、メルマガにもあった通り、毎月末日に行っているインスタライブは、今日は出張で終日取材につきお休み。明日3月1日の14:30から開始します。お昼休みでもない時間ではありますが、皆さん、ぜひご覧になってください。
さて今日はこれもメルマガに書きましたが、アイタイスのサイトのTOPページのメインビジュアルにも登場してくれている長女が、保育園を卒園するタイミングということもあり、興味がある人がいるとは思えませんが、僕自身の「卒業」を振り返るという内容で行ってみましょう。
学校の卒業として経験したのは、幼稚園と小、中、高、そして大学の5回。では幼稚園から。
1:幼稚園(涙:あり)
僕が『箕面市立なか幼稚園』を卒園したのは、1987年の3月。ちなみに何かの運命か、たまたまなのか、その幼稚園は今年の3月を持って閉園となり、44年の歴史に幕を下ろすようです。
卒園式のことはよく覚えています。園内にあるホールのようなところで全体の式典が行われ、その後、各教室で担任の先生の話を聞くという段取りだったと思いますが、その教室での時間で、僕は担任だった藤原先生に声をかけられて、クラスでひとりだけ前に立たされました。
ちなみに幼少期の僕は小児ぜんそくを患っていて、幼稚園の1年間も発作を起こしてばかり。特に精神的に緊張してしまうからなのか、楽しみな行事の前日〜当日に発作を起こすことが多く、わりと大変な生活を強いられていたと思います。
それもあって、先生はわざわざクラス全員の生徒と式に来ていた保護者の前に僕を立たせ、後ろから両肩に手を添えて「雨森くんはぜんそくで辛い思いをしながら、本当に頑張りました」みたいなことを言ってくれました。それを見ている僕の母親が泣いていた光景は今でも目に焼き付いています。
そしてその母親の姿を見た僕も感涙。今に至るまでずっと泣き上戸ではありますが、それはこの時から始まっていたのかも知れません。他の園児で泣いている子はあまりいませんでしたが、僕ひとりだけがけっこう泣いていたと思います。もう、感動屋さんなんだから!
2:小学校(涙:あり)
そこから6年後、今度は『箕面市立北小学校』を卒業します。
ここで覚えているのは、幼稚園と同じく体育館で行われた全体の式典で、舞台上でピアノを弾く音楽の先生が泣いていた光景です。森先生という女性の先生で、怒ったらめちゃめちゃ怖かったのですが、普段は優しくて生徒にも人気でした。
森先生も同じタイミングでその小学校から転勤になることが決まっていたらしく、それもあってか、ピアノを弾きながら泣いている先生につられてまたまた僕も感涙。晴れて2回連続の泣きに成功です。
もう一つ覚えているのは、これまた全体の式の後の教室での時間。担任だった佐竹先生は「中学になったら、みんなもっと勉強をしないといけない」と言っていたことです。どんな文脈で、どんな真意があったのかまでは覚えていませんが、その事実だけは忘れられません。
3:中学校(涙:あり)
さらに3年が経ち、『箕面市立第2中学校』を卒業するのは1996年の3月のこと。
もう“お年頃”で、好きな女の子がいた僕は、卒業式の日にラブレター的な手紙を書いて渡したという甘酸っぱい記憶があります。しかもそのラブレターに、当時つかっていたドラムのスティックを添えて、「僕は将来ミュージシャンとして成功するので、その時にこのスティックを自慢してくれ」みたいなことを書いていたと思います。ん〜、恥ずかしい! そして気持ち悪い!
もうひとつ、思い出があります。中3時のクラスメイトには小学校も同じだったわりと重度の知的障害がある自閉症の女の子がいました。僕はその子のことを特別扱いするわけでもなく、常にフラットに、でも他の人よりはたくさんコミュニケーションをとっていたようです。
するとその女の子が卒業文集に「あめのもりくん(と、もうひとり、女の子の同級生の名前もありました)はやさしくれてくれた。ありがとう」と書いてくれて、それを見た担任の先生が、僕の母親に「雨森くんの接し方を見ながら、勉強させてもらった」みたいなことを伝えたようでした。
中学校の3年間は、僕自身が途中で完全にグレていたこともあって、非常に濃密でしたし、小学校から中学校と違って、卒業後は仲間もみんなバラバラになることもあって、またまた僕はけっこう泣いていました。3回連続の泣き! もはや恒例行事!!
4:高校(涙:なし)
そしてさらにそこから3年。『大阪府立北野高校』の卒業は、ミレニアム前夜となる1999年の3月です。
この時は、特に記憶にないんですよね。ただ涙はいっさい流していないことは確かです。高校時代も自分なりに楽しんで、充実した3年間でしたし、友達もいなかったわけではないですが、大きな感慨はなかったと思います。
ただ「サッカー部のメンバーや、ほんの一部の友人を除いて、この人たちとは、もう一生会わないんだろうな」と感じていたことはハッキリと覚えています。
通っていた高校は進学校だったので、相変わらずミュージシャンを目指していた僕のような存在は、完全にはみ出しものです。「ここにいる人たちとは違う人生を歩むんだろうな」と感じていたんだと思います。
5:大学(涙:なし)
浪人を挟んで(あ、予備校にも卒業式的なことがあったかな? であれば全部で6回かも)、『関西学院大学』を卒業したのは2004年。ちょうど20年前です。
この時は高校にも増して、何も感じることはありませんでした(笑)。とうぜん涙もなし。というか卒業式の記憶がぜんぜんありません。部活やサークルに入らず、そもそも大学にぜんぜん行ってなかった僕には、学内にあまり友達がおらず、その数少ない友達たちも休学などで卒業のタイミングがずれていました。
覚えているのは、義理の兄が勤めていた伝手で大阪のリッツカールトンでゼミの謝恩会を行ったということくらい。その10年ほど後に、同じ場所で僕は結婚式を挙げます。
ん〜、やっぱり本当に何も書くことがないな……。大学の4年間自体は濃密だったのですが、それはすべて大学の外の話だったので。まあこれくらいでいいでしょう。
はい、今日はここまで。
過去に類を見ないほどに有益な情報のないコラムでしたね……。いやはや。ただ時間がないので、これで終わりましょう。
このコラム、やるならやるで、もうちょっときちんと準備をして書かなければいけません……と思い続けてもう何年たつのでしょうか。ほんと、ダメですね。
さて、娘の卒園式(「就学祝い会」と呼ぶらしいですが)はもう来週です。さあどうでしょう。自分のと通算すると6回目となる今回は「涙あり」でしょうか。「涙なし」でしょうか。なにかの形で報告できればと思います。
ではまた来月に。
Editor’sNote
五反田に小さなオフィスを構えるブランディング&クリエイティブカンパニー、アイタイスの代表です。