みなさん、こんにちは。アイタイスの雨森です。
まずはいつもの業務連絡から。毎月末日恒例の『マンスリー振り返りインスタライブ』ですが、本日は午後16:30より30分の配信を予定しております。お昼休みの時間ではないのでリアルタイムで視聴するのは難しい方もいるかも知れませんが、タイミングが合う方はぜひ。
さて、このコラムを書いているのは、毎度のことながら公開日である3月29日の早朝。前回も似たような話をしましたが、数時間後には長女が6年間かよった保育園に最後の登園をします。
そんな彼女ですが、2週間ほど前に人生初のピアノの発表会に出演しました。まだピアノを習い始めて1ヶ月ほど。レッスンの回数でいくとたった6回で舞台に立つという、なかなか“とんでも”な経験をしています。それに関連して今日は「習い事」の話をしてみましょう。
習い事なんて、必要ない??
僕の子どもはいま6歳と4歳。習い事として、お姉ちゃんは『チアダンス』と『ピアノ』、そして家でいわゆる『タブレット学習』を、そして弟くんは『サッカー』をやっています。
語弊を招くことを覚悟で言うと、僕は子どもの習い事に関して少し懐疑的な考えを持っていて「時間とお金を投資するわりに、あまりリターンってないよね」と思っているのが正直なところ。
極論ではありますが、何かしらのスポーツや芸事を習ったとて、それを職業にできる可能性は本当に少ないし、どうせいつかは辞めてしまうことの方が多いわけだし、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」みたいな考え方にはぜんぜん共感していないし(スポーツをやっていても精神面が鍛えられていない大人はたくさんいるし、逆にやっていなくても鍛えられている大人もたくさんいる)、習い事で友達が増えるとも思っていないし、そもそも友達が多い方がいいとも思っていないし、習い事でしか得られない経験はあると思うけど、それが将来につながることの方が少ないし……と、あえてネガティブな面を挙げるとそんな風に思っています。
であれば、将来につながる可能性が高い勉強系(塾とか公文とか)をやらす方がまだいい(それも別にやらさなくていいと思っていますが)というのが大枠の考え方。まあ自分がそういう生き方をしてこなかったこともあるからか、余計にそう思っています。(じゃあ家でダラダラとYOUTUBEでも見てる方がいいのかと言われると、それも肯定しかねるのですが……)
そうです。僕は小さな頃、上で書いた「勉強系」以外の習い事をけっこうたくさんやっていました。しかしそれが大人になった時に好影響を与えているかと言われると「分からない」というのが正直な意見です。当たり前ですよね。それをやっていなかった自分と比べることができないわけですから。
ではここからちょっと振り返ってみましょう。
スイミング
いちばん初めに習ったのは水泳でした。きっかけは明確。僕は重度の小児ぜんそくを患っていたので、肺機能を高める効果があるとされるスイミングを母親が習わせたというだけです。
もちろんながら大人になって水泳選手になったわけでもないですし、スイミングで知り合った友人で今もつながっている人など皆無だし、ぜんそくは確かによくなりましたが、それが水泳の影響なのか、単に成長につれて身体が強くなったからなのかは分からないですし(そんなことを言い出したら、議論の意味がないだろうって感じではありますが・爆)、つまり「習っていてよかった」と思うことは、今はありません。
強いていうと「学校の水泳の授業で辛い思いをしなかった」くらいですかね。
ボーイスカウト
これは始めたきっかけがわかりません。でもおそらく親の意向だったんだと思います。そして水泳以上に「やっていてよかった」と感じることはありません。
もちろんここで出会った友人もいましたが、大人になった今つながっている人はゼロだし(だからそれを言っても仕方ないだろ! っていうのはいったん無視)、当時は飯盒炊さんが上手にできたり、ロープとロープを上手に結ぶことができたりしましたが、それができたところで、「で? じゃあ今それでなにか?」って感じですよね。
空手
これもきっかけは分からないのですが、自分からやりたいと言った記憶はありません。
もしかしたら精神面が鍛えられていたり(確かに冬の体育館で裸足はめちゃめちゃ冷たくてきつかった!)、礼儀作法などが身についたりしたのかもしれませんが、じゃあ世の中の空手をやっていない人が、そういった素養に欠けているかと言われるとそうではないわけで(だからそれを言ってしまうと、元も子もない! というのはいったん無視)、これも習っていたことで何かをもたらしてくれているかと言われると、特に思いつきません。
ピアノ
これまたきっかけは分からないのですが、母親からチラっと聞いたのは「左手を動かすことで右脳が鍛えられるから」みたいな意向があったのかもしれません。でもそれも親として“それっぽい”ことを言いたかっただけっていう気がしてなりません(笑)。まあ、2人の姉もやっていたし、ピアノの先生も隣に住んでいたし、なんとなくといったところでしょう。
習っていたときはイヤで仕方なかったピアノですが、中学になってバンドを始めた僕は、音楽にのめり込み、今度は趣味としてピアノを弾くようになって今に至ります。
大人になった今、「趣味」というものの尊さは非常に感じているので、ピアノに関しては習い事として役立ったのかもしれませんが、とはいえそれも「バンドを始めて音楽に興味を持った」という自分の行動がもたらしたものとも言えるので、習い事として有効だったかは分かりません。
あと「ピアノが弾ける男性はモテる」みたいな言説がありますが、それはまったく信じていません。またまた元も子もない言い方になりますが、ピアノが弾けなくてもモテる人はモテるし、ピアノが弾けてもモテない人はモテない。誰もが本当は分かっているはずの真実です。まあちょっとした武器にはなると思いますが、僕はそれを武器として使ったことはないと思います。
サッカー
人生をかけてのめり込んだもののひとつがサッカーです。小学校〜中学にかけては、これを職業にしたくて本気で取り組んでいました。が、とうぜんプロにはなれず、費やした時間やお金、情熱は、あえてネガティブに言うと無意味だったわけです。
もちろんサッカーを通して思い出や友情などをたくさん得たことは間違いありませんが、それはサッカーをやっていなくたって他のカタチで得たかもしれないので(これまた元も子もないやつ!)、あれだけ本気でやっていたサッカーとて、何かをもたらせてくれているかと言われると分かりません。最初に書いた通り、健全な精神は〜みたいなものは、そもそも信じていないので。
バンド
サッカーと並んで、もうひとつ人生で本気で打ち込んだのがバンドです。同じく音楽で食っていくことを目指していました。
ここで書けるのは、サッカーと同じ。本当にたくさんの思い出や友情、他人となにかをつくり上げる喜び、苦境を乗り越える経験……などを得たことは間違いないですが、とは言え、それもバンドをやっていなくても他で……(以下省略。サッカーと同じ)
とまあ、あえて“習い事不要説”をベースに書くならば、こういうことが言えるなと思っていました。
あと少しだけ話はそれますが、大人になって、友人からこんなことを言われたこともあります。それは30代に趣味としてやっていたインターネットラジオの相方が放った「あめやん(=僕のあだ名)が、サッカーをやってもめちゃめちゃ下手、ドラムとかピアノもぜんぜんダメやったらよかったのにな」的な、冗談半分の発言です。
くだらない自慢ですが、僕は上に書いた通り中学時代にサッカーやバンドばかりしていたのに、大阪でいちばん偏差値の高い高校に行くことができました。当時は“地頭”がよかったのかもしれません。そんな僕が仮に勉強にしか興味がない学生時代を送っていれば、社会人としてものすごく大成したかもしれない、みたいな話です。
こういう「たられば」は本当に不毛ですし、「こうだったらもっと成功していたかも」みたいなのは、僕なんかより当てはまる人がたくさんいるのはもちろん分かっています。しかし言ってみれば習い事が仇になったとも言えるわけで。これも「習い事不要論」に付け足しておきましょう。
迎えた3月17日。場所は『蒲田アプリコ 小ホール』
少し長くなりましたが、ここで冒頭の娘の発表会の話に戻ります。
今年の2月2日に初めてレッスンを受けた彼女ですが、確かその1週間後、2回目のレッスンの時に「実は来月に発表会があるので、出たいのであれば出ることができる」と先生から案内を受けます。しかしその時点ではまだ「ドレミファ〜」という概念はもちろん、とにかく何も分かっていない&何もできない状態。当然ながら曲だって1曲も弾けません。先生も出ないことを前提に、いちおう情報提供だけはしてくれただけだったと推測しています。
しかしなぜか本人ははじめから「絶対に出る!」の一点張り。おそらく同じ先生の元でレッスンを受けている保育園のクラスメイトが出ることを知っていたからでしょう。
僕はやんわりとですが、ずっと出ない方向へと誘導していました。その理由は「まだ1曲を上手に弾き切れるわけがない」という勝手な前提のもと、成功体験にならないであろうことや、それによって始めたばかりのピアノを嫌いになってほしくないという思いがあったからです。
数週間にわたって、本人の「出る!」と、僕の「う〜ん、でも……」の攻防は続きます。その間、「出る」と言っているわりには、積極的に練習をしない日もあってこちらも少しイライラしたり、あとは先生と相談を進めて「左手は先生、もしくはパパである僕が弾くという方法もあるよ」とアドバイスをいただいたりしながら時間が過ぎていきました。
けっきょく本番の2週間ほど前に出演することが決定。ギリギリまで様子を見て、仮に両手で弾けそうになければ左手は先生が弾くということになりました。
そして迎えた当日。
キレイに着飾ったお洋服を着て、僕が思っていたたよりも何倍も立派なホール(出演者の家族ばかりでしょうけど、100人弱の観客がいたと思います)の舞台の中央へ、何も臆することない様子でスタスタと歩いてきた彼女は、両手を前にペコリと頭を下げます。そしてスタインウェイのグランドピアノの前にチョコンと座り、ほんの少しのミスはあったものの、両手で童謡の「かっこう」を弾き切り、またステージの中央へと歩いていって、充実感のある笑顔で再度ペコリと頭を下げました。
先生の力は借りることなく、一人で成し遂げたわけです。弾き終えた後の満面の笑みは忘れられません。
そしてその瞬間、僕は彼女に対して「やっぱり出演しない」という決断を促していた数週間前の自分をめちゃめちゃ恥じ、安堵の表情で僕の元に駆け寄ってきた彼女に「『出ない方がいい』みたいな物言いをしてごめん」「パパが完全に間違ってた」という旨の謝罪を行いました。
はい、今日はここまで。
この発表会にまつわる1ヶ月間の物語で、6歳の長女から学んだこと。それは“成長”を目指して、物事に取り組むことの価値です。
それが近い将来、もしくは中長期的な未来に役に立とうが立たまいが、そんなことは関係ありません。極端な話、発表会が終わった瞬間に彼女がピアノを辞めて、その後の人生で一度も鍵盤を触ることがなかったとしても、この1ヶ月に意味はあったのです。
実際は意気揚々と「次の発表会はいつ?」「また絶対に出る!」と笑顔を見せていましたが(笑)
成長を志すこと。ほんのちょっとでも、できなかったことができるようになること。そのために自分の力でやってみること。すごく抽象的な言い方ではありますが、それらの積み重ねが人生を有益なものにするんだと確信を得た出来事でした。
ということで、これからも“習い事有用説”論者として(笑)、その尊さを世間に訴え続けていきます。ではまた。
Editor’sNote
五反田に小さなオフィスを構えるブランディング&クリエイティブカンパニー、アイタイスの代表です。