ジブン40年史 - 私の歩み -

ジブン40年史 – 私の歩み – 【8】高校進学。あの時、あの人、あの思い出。

雨森武志

雨森 武志

UPDATE 2019.12.04

中学校を卒業し、春休みに入ると、私は母親がパートで働いていた工場でアルバイトをさせてもらった。仕事内容は、タオルを箱に詰める、という単純作業を行うだけ。2週間ほど通って、たしか5万円ほどを稼いだはずだ。中学と高校のはざまにいた私は、それまで手にしたこともない額であるその大金を手に、心斎橋のアメリカ村中のお店をまわっていた。

最悪のスタートで始まった、高校生活。

お目当ては『ポンプフューリー』というスニーカー。当時、社会現象にまでなったハイテクスニーカーブームを、『エアマックスシリーズ』とともに牽引した超人気種である。その後、復刻版が発売され、より簡単に手に入るようになったが、当時はなかなか入手できなかった。結果的に、「無国籍」と呼ばれていたショップにあった最後の1足を25,000円ほどで購入することに成功。意気揚々とそれを履いて、高校に通い始めた。そして、入学式の日。

その靴はなんだ。

初日から大目玉をくらった。数週間前まで通っていた中学は、「校則」と呼ばれるようなものがほとんどなかったので(本当はあったのかな?)、まったく意識をしたことがなかったが、どうやら白い靴を履かないといけないらしい。早くも講師に目をつけられた。足元はポンプフューリー。背中にはピンク色のグレゴリーのリュック。同級生の間でも「派手で、ややこしいやつ」と思われていたような気がする。

通っていた北野高校は、阪急十三駅から徒歩10分ほどの場所にある。前回もすこし触れたとおり、手塚治虫や森繁久彌、橋下徹など数々の著名人を排出した超名門校だ。我々が「111期生」だったことからも、そうとうに長い歴史を有していることが分かる。入学式をはじめとした式典や会合では、講師の口から何度も何度も「伝統」という言葉を聞かされた。当時の私は、中学の時のようにツッパっていたわけではないが、さすがに教師たちの言う「伝統」という概念は、「関係ない」「くだらない」と感じていた。

学校までは阪急電車で1本。小学校からの同級生であるカドと一緒に、最寄りの箕面駅から40分ほどの時間をかけて登校する日々だ。我々が隣同士で座る席の前に立つサラリーマンやOLさんたちが、無意識のうちに耳に入ってくる2人の会話を聞きながらクスクスと笑う、なんてことがよくあり、いつの間にか、互いに意識していないふりをしながらも、周りの人を笑わせようと試みていた記憶がある。

部活は当然、サッカー部。もちろん、もうプロは目指していなかったが、なんとなく「高校でサッカーは終わり」と自覚していたのだろう。これまで以上に、打ち込んだ。北野高校のサッカー部は、公立高校の中では、割と強い方だったと思う。掲げられていた目標は「大阪府ベスト8」。2つ上の先輩も1つ上の先輩もベスト16まで上がっていた。府内に200校以上の高校があることを考えると、決して弱くないことが分かる。中学の時はガンバ大阪のジュニアユースに所属していた私には、勉強をともにする学友たちと、放課後はサッカーをするという事実も新鮮だった。

私は早めに上級生の試合にも出るようになり、そこから高校3年の10月まで、相変わらず勉強はそっちのけで、サッカーボールを追いかけていた。私の代の正ゴールキーパーは、中学の時に塾で一緒だった、久下季哉くん。彼を含めた同学年の20人ほどの部員たちは、同じ夢を追いかけた真の仲間だと思っている。結果的に私たちは、大阪府ベスト8という夢を果たせずに引退した。最後の試合、人目をはばからず、叫ぶように大声をあげながら泣いたのもよき思い出。しかしこの連載では部活のことについては、深く触れるつもりはない。

上半身裸なのが筆者。校舎の改築を控え、このグランドで練習をした最後の日に撮られた1枚。

高校でも印象的な出会いがたくさんあった。1年1組。割と疎ましがられる「総務(いわゆる学級委員ですね)」というポジションに、率先して手を挙げた生徒がいた。聞くと彼は、小学校、中学校、ともに生徒会長をしていたという。彼の名は、松岡あきみちくん()。約10年後、松岡くんは、史上最年少で豊中市の市議会議員となる。同じ1組には、とても精悍な顔立ちをしたスポーツマンがいた。武部紘一郎くん()。彼は3年の時に海外留学をして、今はパーソナルトレーニングのジムを大阪で営んでおり、テレビなどでも大活躍しているらしい。この2人には、先日、弊社サイトでも対談をさせてもらった。

高校2年のときには、小学校・中学校を通して、はじめてカドと同じクラスになった。小さな頃は「肥満児」と呼べるレベルで体が大きかったカドは、いつの間にか割とスマートになり、バスケ部のキャプテンを務めていた。中学までは決してモテる方ではなかったと記憶するが、高校では違う。学年でも美人と有名だった女性と高校卒業と同時にお付き合いを開始し、そのまま添い遂げ、現在は2児のパパとなっている。29歳の時には、カドの結婚式で私が、その5年後、私の結婚式ではカドが、友人代表として挨拶をしている。

修学旅行の沖縄で、カドと。

進学校だけあって、基本的には真面目な学生が多かった。それだけに、すこし奇抜なファッションや髪型をしているだけで、すぐに目立つ。1つ上の代には、当時カルト的な人気を誇ったファッションブランド「20471120」のカバンを持っている人がいて、「かっこいい先輩がいる」といつも思っていた。高校時代には直接、話をすることがなかったその人の名は、中谷琢弥()。音楽ライターとして、カルチャー系の地方紙の中では別格の存在である『カジカジ』に、大学生時代に連載を持ったすごい人だ。彼とは、高校を卒業してから、とある縁から交流を持つこととなり、後に一緒にひとつのメディアをつくることとなる。現在はサブカルチャーマガジン『EYESCREAM』の編集に携わっているようで、今でも時々は連絡を取り合う仲だ。

決して、知り合いの有名人自慢をしたいわけではないのだが、もう少し紹介を。3年生の時、2つ下の代で仲の良かった後輩がいる。バスケ部でマネージャーをしていたその子は、容姿端麗で、他の学生とは少し違った雰囲気を持っており、何がきっかけか分からないが、2つの年齢の差を超えてとても仲良くなった。その女性は、那須久美子さん()。彼女は、北野高校の生徒としては珍しく、美容師を目指し、高校卒業後に美容系の専門学校に入った。そして、その夢を見事に叶え、現在は『Michio Nozawa HAIR SALON Ginza』というサロンで勤めている。私には詳しく分からないが、日本でもトップクラスのスタイリストに成長しているようだ。その他、1つ下の代には、後にラグビー日本代表のキャプテンとなる廣瀬俊朗くん()がいる。もちろん彼ほど立派な体格をしていたわけではないが、自分なりに筋トレを頑張っていた私は、学校のトレーニングルームで彼をよく見かけた。廣瀬くんとは直接的な面識はないが、例えば弊社サイトの対談コンテンツにゲストとして登場していただくなどして、いつかお話をしたいな、なんて勝手に考えている。

そんなさまざまな出会いがあった高校時代だが、その中でも特に仲が良かったのは、同じサッカー部の幸田泰尚くん、通称「ヤッさん」だ。とてもイケメンで、私と同じく、学校の勉強よりファッションや音楽、その他のカルチャーを好んだ彼とは、高校の同級生の中では数少ない、心から分かり合える友人だった。部活の練習が休みになる月曜日は、いつも2人で学校をサボり、梅田の喫茶店で待ち合わせ。前述のカジカジを片手に、アパレルショップをまわったり、オシャレなカフェを探したりするために、心斎橋や堀江界隈を歩き回った。高校1年生の時に、人生で初めてクラブ(音楽を聴く方)に行ったのも、ヤッさんと。それぞれの親には、互いの家に泊まりにいくと嘘をついた。

鰻谷にあるカフェコロンビアに行って、「学生服では入店できない」と断られた思い出。その同じビルにあった「マンボラマ」というアパレルショップで、カンペールのスニーカーを買った思い出。南船場にある浜崎健立現代美術館に行って、当時なけなしの小遣いをはたき、バスキアのポスターを買った思い出。『BIG STEP』というショッピングモールのオープン記念のゲストとして、モデルのあんじが来ると聞いて、沸き立った思い出。今はなきCISCOレコードに入ると、電気グルーヴの「ガリガリ君」が流れていて、「?」な気持ちになった思い出……。少し悪いことする時、大人びた遊びをする時、いつもヤッさんと一緒だった。

高校の卒業式で、サッカー部の仲間たちと。最後列左から3人目が筆者。その右がヤッさん。

ヤッさんとの深い付き合いは、高校卒業後も続き、大学時代にはとあるプロジェクトでさらに濃密な時間を過ごすこととなるが、それはまた後の話。彼は30歳を超えてから東大の修士課程へと進み、現在『クラウドリアルティ』という会社で、執行役員をしているらしい。会おう会おうといいながら、なかなか実現していないが、今年あたりは声をかけてみようと思っている。

(つづく)

Editor’sNote

雨森武志

雨森 武志

言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書

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雨森 レビュー

本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」 自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、たぐい稀な人間ドラマが見つけられる。

参照元 https://www.amazon.co.jp/

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