ジブン40年史 - 私の歩み -

ジブン40年史 – 私の歩み – 【4】夢への一歩。そして挫折へ。

雨森武志

雨森 武志

UPDATE 2019.10.09

きっかけは何だったのだろうか。今となってははっきりしない。なんとなく覚えているのは、5つほど歳が上の従兄弟がサッカーをやっていて、正月やお盆に田舎で会った時に、一緒にボールを蹴っていたこと。気づけば、周りに自分より上手な人はいなくて、いつもサッカーに関しては、自信満々だった。

井の中の蛙大海を知らず。しかし、仲間がいる。そして、次に追うべきものがある。

幼稚園の園庭で、小学校の校庭で、近くの公園で、家の前の道で……。学校の友だちと、近所の仲間と、公園で出会った見知らぬ人と……。物心がついたときには、すでに私はサッカーが大好きで、いつもボールを蹴っていた。

チームに所属したのは、小学校4年のとき。地域の4〜5つの小学生が集まる『箕面南JFC()』というサッカーチームだ。練習は土曜の13時からと、日曜の8時から。土曜日は学校から帰ってきて、昼食をとりながら『吉本新喜劇』を観て、すぐに家を出る。日曜日は朝早く起き、7時から放送していた『所さんの目がテン』を観てから、自転車で20分ほどの練習場所に向かった。平日も、登校前に近所の公園で1時間ほど練習をする。小学校へもボールを蹴りながら登校していた、「超」がつくほどのサッカー好きだ。

箕面南JFCでは、入団してすぐに、上級生のチームでレギュラーとなり、6年時にはキャプテンに任命された。それほど強いチームではなかったが、部員数は3年〜6年までおそらく50〜60名はいる。その後の人生においても、わりとチームのリーダー的なポジションをとることが多くなるが、この時がその始まりだった。今でも親交のあるチームメイトが何人かいて、いじり半分に「キャプテン」と呼ばれて、むず痒く感じる。

よく試合を行っていた猪名川の河川敷で。4年生。

6年の時にJリーグが開幕し、日本では空前のサッカーブームが起きていた。私の将来の夢も、とうぜんサッカー選手。おもちゃやマンガなどは買わない家だったが、『サッカーマガジン』や『ストライカー』といったサッカー雑誌は毎月、買ってもらっていた。今にいたる雑誌好きは、この頃から始まっていたのかもしれない。さほど好きでもない習い事をやめて、サッカー漬けとなった毎日は、子どもながらにとても充実していた。

少し脱線するが、箕面南JFCというチームは、その後、長きに渡って、私に不思議な縁を与え続けてくれた。まずは卒団してから約3年後。2学年上の代のキャプテンだった横山くんと、高校のサッカー部でも同じチームメイトとなる。そのさらに約10年後、2学年下の代でキャプテンをしていた川崎くんは、私が勤めていた小さな制作会社に、転職して入ってきた。ものすごい偶然だ。そして極めつけは、つい最近である今年の8月。とある仕事の取材で、台東区の蔵前にある某メーカーに訪れ、担当者と話をする中で、その方が大阪出身とわかり、「大阪のどこですか?」なんて話をしていると、同じ箕面市が地元だと発覚。そしてなんと、その人も箕面南JFCのOBだった。

中央でキャプテンマークをまいているのが筆者。後列右端のイケメンが、前回紹介したはらやん。

さて、箕面南JFCの卒団が近づいた小学校6年の3月。私はサッカー選手になる夢を叶えるべく、ガンバ大阪の下部組織に入団する。練習場所は、豊中市の服部緑地という場所。家からは自転車で40分くらいだっただろうか。往復だけでもなかなか大変だったが、プロチームのジュニアユースに入ったことは、大きな夢に向かう着実な一歩を踏み出した感覚があり、興奮していた。中学生になってからは、月曜を除く平日は毎日が練習。学校が終わったらすぐに家に帰り、着替えをして、自転車で練習に向かう日々だった。

今でも脳裏に焼き付いている光景がある。忘れもしない、練習初日の出来事だ。スパイクを履き、グランドに入ろうとすると、すでに数人の選手がコーチを交えて試合形式のミニゲームを行っていた。私の目は、自然とその中の一人に釘付けとなる。なぜなら、足の動きが早すぎて見えなかったからだ。マンガのような話だ。だが、本当に足が見えない。それくらい早く、ボールをまたいでいた。彼の名前は、大黒将志()。後に日本代表に選ばれ、2006年ドイツワールドカップにも出場した、あの大黒だ。その他にも、同期には、当時すでに12歳以下の日本代表として活躍していた夏目くん(下の名前を忘れました)や、浦和レッズで活躍した池田学くん()などがいた。

彼らは想像以上にうまかった。小学校までに少し高くなっていた私の鼻は、ガンバに入団して早々に、いとも簡単に折られた。まさに、井の中の蛙大海を知らず、である。とはいえ、あの当時、日本国中がサッカーブームに沸いており、その影響か、入団試験のなかったガンバのジュニアユースには、同学年が150人ちかくいたと思う。私と同じように、地元では負け無しだったにも関わらず、その圧倒的な実力差に、面食らった仲間も多かったはずだ。

そして初日の練習が始まる。コーチは軽いトーンで、「まずは、リフティングを500回。その後、インサイドだけで同じく100回」と告げた。私にはまったく出来なかった。が、火がついた。春休みだったこともあり、ガンバの練習以外のすべての時間を、リフティングの練習に捧げる。たしか翌々日にはできるようになっていた。

当時のジュニアユースは、実力別にAチームからDチーム(Eもあったかもしれない)までに分かれていた。私がいたのは、ほとんどBチーム。先述のオグリ(=大黒くん)や夏目、ロボ(=池田くん)たちは、もちろんAチームにいる。私も時にAチームに呼ばれることもあったが、なかなか居座ることはできなかった。Bチームの練習は、過酷だった。いや、屈辱的と言ってもいいかもしれない。それは練習の内容というよりは、環境面の話だ。まず、ほとんどコーチに見てもらえなかった。たまに来るチャンスのタイミングでコーチに評価してもらうべく、その時に向けて、グランドの隅っこで延々とミニゲームをするだけ。ゴールもコーンを2つ並べたものなので、ネットがない。シュートが入った後に、遠くまで転がっていったボールを、自分たち拾いにいかないといけなかった。また、練習は17時からなので、秋〜冬にかけてはすぐに暗くなる。工事現場で使うための簡易なライトがあるだけで、ボールがよく見えないこともあった。腐らずにやる方が難しい。

そんな環境のせいか、自分を含めたBにいる面々は、少しずつだが、精神的に疲弊していっているのがよく分かった。学校のクラブと違って、決して安くはない月謝も払っている。グランドも遠い。しかも練習は誰に見られているわけでもなく、最初から最後まで選手たちだけでミニゲームをするのみ。なんのために、こんなことをやっているのだろうか……。誰もが、感じたくはない疑念を持ちはじめていたと思う。しかも、ガンバではBチームとはいえ、自分の学校のサッカー部にいれば、エース級の選手ばかりだ。くだらないプライドもあったのかもしれない。過酷な状況に耐えきれず、一人、また一人と辞めていった。150人いた同学年の仲間は、結果的に私がやめることになる中3の春には、20人ほどしかいなかったように思う。

私は自分からは辞めなかった。Aチームには上がれなかったが、入団した時ほど、大きな実力差があるとも思えない。何より、仲間が好きだった。練習後、Aのメンバーたちとコンビニで会うと「あめやん、早くAに上がっておいでや」と声をかけてくれた。私が「あめやん」というあだ名が好きなのは、あの時、彼らがそう呼んでくれたからに他ならない。

そしてガンバに入って2年と少しが経った中学3年の5月。その時はやってきた。練習後、私を含めた4〜5名のメンバーが呼ばれる。そこでコーチが口にしたのは「ここで退団をしろというわけではないけど、このままやっていても君たちはユース(1つ上の階級。高校生の年代が属する)には上がれない。あとの判断は自分でしなさい」という言葉。それは“足切り”と呼ばれた一種の儀式のようなもので、つまりは戦力外通告だ。私も、それまで他のメンバーが足切り宣告を受けているのを何度か見てきた。夢を抱く中学生が受け入れるには、あまりに残酷な事実だ。

その約1ヶ月後、私はガンバを辞めた。そこまでも、別に順風満帆だったわけではない。だが、夢へと続く道の上にいるとは思っていた。その道から降りたあの日。人生ではじめての大きな挫折だった。

ガンバを退団した後、中学3年の私は、同じく在阪のプロチームであるセレッソ大阪や、プロチームの下部組織ではないが強豪クラブチームだった高槻FCのセレクションを受けている。しかし、結果はダメだった。これは余談だが、ガンバのジュニアユースからユースに上がれなかったという点で同じなのは、もはや説明不要の存在、本田圭佑選手だ。つまり、ユースに上がれなくても、彼のように大成する例もある(マリノスで言うと、中村俊輔選手も同じ)。足りなかったのは、技術なのか、スピードなのか、人間性なのか、はたまた練習量なのか、思いの強さなのか、そのすべてなのか。それはもう分からない。

ちなみに、高槻FCのセレクションは、試合形式。ほんの10分程度しか時間を与えられず、大した結果は残せなかった。しかし、1人だけずば抜けてうまかった選手がいたことは覚えている。後で気づいたが、二川孝広だった。彼も後にプロとなり、日本代表にも選出された。

当たり前だが、上には上がいる。無事にユースに上がっても、プロになれるのは、その中の数人。しかも、そのすべてが長くプロとして活躍できるかというと、そうではない。手垢まみれの表現ではあるが、本当に厳しい世界である。そのほんの一端を見られただけでも幸せだったかもしれないと、大人になった今では思う。

30歳を越えてから、当時、一緒にジュニアユースに通っていた友人と飲む機会があった。驚いたことに、彼らは、私が足切りを受けた日のことを覚えていたのである。普段は練習を終え、家が同じ方向にある数人が集まって、途中で買い食いなどをして、ワイワイとはしゃぎながら帰路についていたのだが、あの日は誰も口を開かず、全員が無言で自転車を漕ぎ続けていた。厳しい環境に負けず、たくましく戦っているとはいえ、全員がまだ14〜15歳。完全に子どもだ。失意のどん底にいる私にかける言葉が見つからなかったことは容易に想像ができる。しかし、そんなことさえ、笑って話せる未来が来るのが、人生のおもしろさだ。当時の自分に「辛かっただろう」とねぎらいの言葉をかけると同時に「その傷も、必ず癒えるから」と、励ましてあげたい。

本当に恥ずかしいけれど、こんな写真しかないので。レレレTシャツが筆者。なんでやねん・笑。前列右から3人目が大黒。

もう少し話は続く。これも後述するが、私は中学2年生から、バンド活動を始めていた。毎週木曜日がバンドの練習日で、ガンバが終わってから、地元の公民館の音楽室に集まっていた。足切り宣告を受け、無言で自転車を漕いだその日は、まさに木曜日。私は、バンドの練習の後、その日あったことをメンバーに告白し、周りをはばからず号泣をした。そして、みんなが勇気づけてくれた。

小さな頃から抱き続けた「サッカー選手になる」という夢が事実上ついえたその日が、バンドの練習日だったということ。もちろんただの偶然なのだが、後から考えると、人生の進路変更を決定づけた1日だったと思えて仕方ない。

(つづく)

Editor’sNote

雨森武志

雨森 武志

言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。

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本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」 自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、たぐい稀な人間ドラマが見つけられる。

参照元 https://www.amazon.co.jp/

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