ジブン40年史 - 私の歩み -

ジブン40年史 – 私の歩み – 【7】偏差値、約「30」の差。

雨森武志

雨森 武志

UPDATE 2019.11.20

“成れの果て”である今の私が、まったく大したものではないからこそ、逆に屈託なく書ける話がある。くだらない自慢話だと思って聞いてほしい。私は物心がついた時から、とても勉強ができたのだ。

環境や音楽がもたらした「大人は敵」という感覚。

中学生になると、定期テストがあり、その1週間前は、学校の部活が休みになる。もちろん、その期間はテスト勉強に注力すべきという判断からだろう。しかし、前述の通り、私はガンバ大阪の下部組織でサッカーをしていたため、そんな休みなどまったく関係がない。定期テストは多くの場合、月曜からスタートするが、その前日の日曜でも遠方で試合があった。そうなると、とうぜん帰ってくるのが遅くなる。「明日のテスト勉強をしないと……」と思いつつも、疲れがひどく、どうしても寝てしまう。結局、まったく勉強ができないままに、テストを迎えることが多かった。

また、これも少しだけ触れたが、私は中学校に入って、恥ずかしながら、割とグレていた時期があった。その当時に聞いていた音楽の影響もあったのだろうか。「大人は敵だ」とすら思っていたかもしれない。したがって、講師の言うことなど、聞いていなかった。「真面目に勉強を頑張るなんてダサい」みたいな感覚すら持っていた可能性もある。講師には常に反抗的な態度をとり、授業も真面目に受けず、サボることもよくあった。

で、蓋を開けてみると、ほぼすべての科目で90点以上。100点をとることも珍しくなかった。自分でもなぜそれが可能だったのか、本当によくわからない。「親の遺伝子」みたいな説もあるが、両親ともに田舎の高卒。それもおそらくないだろう。

こんなことがあった。あれは中学3年生の時。理科のテストで、私は99点をとった。1つだけ間違えた問題は、天気予報に関するもの。「風の強さは、何段階で示されるか」といったような設問だったと思う。もっとも強いときに「10」になることを知っていた私は、深く考えることなく「10段階」と解答する。しかし、この問いには落とし穴があった。正解は「0」を含めた「11段階」。見事にひっかかってしまった。テストが返却された日に、理科の先生が言うには「この問題に正解したのは、学年で1人だけだった」とのこと。その1人は、小学校時代からの友人、カドだった。

正直に言って、中学校の時には、いや、小学校の頃から、「自分は勉強ができる方だ」ということは自覚していたと思う。しかし、サッカーとバンド、ファッション、恋愛……と、他に興味を持っていかれるものがたくさんあって、勉強や受験にはまったく意識がいっていなかった。

とはいえ、中学3年生の夏休みからは、高校受験に向けて、塾に行くことになる。『浜学園』という、地元では有名な塾で、生徒数も多かったと思う。夏休みの終盤、夏期講習も終わりに近づいた頃、講師との面談があった。そこで確認されたことは2つ。まずは「夏期講習が終わったあと、このまま通常の授業を受講するのか」。そして「現時点での志望校はどこなのか」ということ。

繰り返しになるが、私は勉強にまったく興味がなかったので、志望校の基準は、「サッカー部が強いかどうか」だけ。そこで「サッカーの強豪校である北陽高校(現在は「関西大学北陽高等学校」という名前になっているみたいですね)が、今のところ第一候補だ」と答える。すると、面談を担当していた講師は、驚いた表情で「北陽? そんなのね、君が行くような学校じゃないよ。バカ言っちゃいけない」と言ってきた。一言一句、このままだったと思う。その人が数学の講師だったことは覚えているが、名前は出てこない。でも、耳になじまない東京弁と、心の底から人をバカにしたようなあの目を、今も忘れていない。その時にまた改めて「大人は敵だ」と感じた。

ちゃんと東京に持ってきています。幼稚園から高校まで、ぜんぶ。

私はその塾を辞めた。そして今度は『灘学習院』という、こちらは逆に、地元でも比較的マイナーな塾に行くことにした。同じ中学校でその塾に通っていたのは、1人だけ。そう、カドだ。平日は自転車で箕面校に行く。いつも私の家の前まで、カドが迎えに来てくれた。土日はもう少し規模の大きい豊中校に、電車に乗って通う。カドとの待ち合わせは最寄りの阪急箕面駅の近くにあるローソン。行きと帰りの電車では、ちょっとクセのある講師をバカにしたり、同じく少しクセのある他の生徒のことをこっそりといじったり、いつもふざけた話をしていた。受験生のピリピリムードみたいなものとは程遠かったと思う。

土日だけ通う豊中校には、カドの他にも、久下季哉くんと、藤田くん(下の名前を忘れました)という2人の男子がいた。私を含めた4人は、結果的にみんな同じ高校に進学し、久下くんと藤田くんは、部活も一緒になる。高校卒業後、この中の1人に大きな事件が起こるが、それはまた後の話。

受験が近づき、誰もがそうするように、私は私立と公立を併願した。私立で受験したのは、当初の希望通り、北陽高校。浜学園で「君が行くような学校じゃないよ。バカ言っちゃいけない」と言われた学校だ。そして公立は、大阪府立北野高校を受験した。おそらく、その2校には30ちかい偏差値の差があったと思う。浜学園の先生が言うことも分からないこともない。受験そのものに興味のなかった当時の私にはピンとこなかったが、北野高校と北陽高校を併願するなんて、普通はありえないのだろう。けっきょく両方に合格し、北野高校へと進学することにした。同じ中学で北野高校に合格した男子はたった2人。私とカドだけだった。

いま調べると全国1万校中、11位なんですね。思っていたより、さらにすごかった!(画像は「みんなの高校情報」より)

あの時、サッカーを優先させて、北陽高校に行っていたら、どうなっていただろう。同じ学年の北陽高校サッカー部には、お笑い芸人で小説家のピースの又吉直樹さんがいたはずだ。それはそれで、また違った人生になっていただろうな、だなんて、不毛ではあるが、そんな空想をするのも楽しい。

東京などでは知名度はないのかも知れないが、北野高校は大阪、いや関西でも有数の進学校だ。私はその事実すら、あまり分かっていなかった。ずっとサッカー選手になることだけを夢見て、その後はバンド活動に心血を注いでいた中学生が、勉強などほとんどしたことがないままに、そんな高校に行く。どんな3年間になるのか、想像もつかなかった。ともあれ、春からは、箕面駅から約30分の電車通学だ。始発駅である箕面駅は、朝のラッシュ時でも、確実に座れるのがいいところ。隣には、毎日カドがいた。

(つづく)

Editor’sNote

雨森武志

雨森 武志

言わずもがな、日経新聞で展開されている「私の履歴書」を模して、さらに「交遊抄」のニュアンスを足したコンテンツです。日経と同じく全30回を予定しています。

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書

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雨森 レビュー

本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」 自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、たぐい稀な人間ドラマが見つけられる。

参照元 https://www.amazon.co.jp/

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