みなさん、こんにちは。アイタイスの雨森です。
今日も先にお知らせから。先月は僕の体調不良でお休みをした『月末振り返りインスタライブ』。今日はやります! 12:30からなので、ぜひお昼ご飯のお供に、リアルタイムでご覧になってください。目指せ、リアルタイム視聴者、5人!
ということで、今日は先々月に続いて、ちょっとした昔話をしてみようと思います。というのも、来月12月は、ちょっとした節目となるタイミングから、ちょうど20年が経つからです。
それは23歳の時でした。
「1980年生まれ」の僕は、“キリ”よく2000年に20歳になり、2003年は23歳で、大学4年生でした。高校卒業後に浪人をしているので、普通の人より1年分おそいですね。
本来なら就職活動に精を出すタイミングですが、バンドマンを目指していた僕は、一切の就職活動をせず、卒業後はアルバイトをしながらバンドをやっていくと決めていました。我ながら、なかなかのならず者ですね。
そんな中、同じバンドのベースであり、当時は無二の親友と言っていいほど深い関係を築いていたユウタという友人から、ある日、とても深刻そうな顔でひとつの相談を受けます。
それは自分たちの周りにいるさまざまなスキルを持った友人を集めて、「クリエイターチーム」みたいなものをつくりたいという提案でした。面白そうな話だと僕も賛同し、すぐにふたりで人選を進めます。
メンバー選定に要した期間はおそらく2ヶ月。バンドをやっていた我々に加えて、イベントを主催していたDJ、デザインを学んでいた友人、建築を学んでいた友人などを集めて、10名弱のチームをつくりました。参加条件としては、先述の通り、何かしらクリエイティブなスキルや感性を持っていること。それに加えて、それぞれに自分が戦っている土俵や市場に対しての不満を抱え、「変えたい」という気持ちがある、といった精神面も問うていたと思います。
そこから公民館の会議室などを借りて何度かの打ち合わせを行い、チーム名は「weiv(ウェイブ)」に決まります。これは「view」という単語をひっくり返した造語。つまりは「既存の視点や見解などをひっくり返そう」という思いをカタチにしたものでした。
ここまでなら、大学生がやりがちな“サークル的なノリ”でつくられた「みんなで楽しいことをやろうぜ!」的な組織に見えますが、割りとすごいのは我々には事務所まであったということ。
ユウタとふたりで、いくつもの物件を見に行って、僕の母親に保証人になってもらい、上新庄という駅の近くにワンルームのマンションを借りました。(僕が自費出版した本のタイトルに「上新庄」という地名が入っているのは、それが故)。当時は当然ながら収入がないので、メンバー全員が毎月6,000円の家賃を徴収していたことを覚えています。
weivのメンバーには、それぞれの得意領域を活かして、イベントの運営をするチームや、デザインを担当するチームなど、それぞれに役割が与えられていました。その中で僕がメインで担ったのが『Webマガジンの編集』です。
というのも、当時の僕は、雑誌オタクでした。音楽雑誌やカルチャー誌、デザイン関連のものを中心に無数の雑誌を読み漁り、さらに少し背伸びをして、言論系や社会系の雑誌にも手を伸ばします。
weivの活動を始めた際、同じように音楽雑誌やカルチャー誌が好きな面々が多かったこともあり、事業として雑誌やフリーペーパーを刊行したいと目論んだのですが、チームのメンバーは全員ただの大学生。ノウハウもお金もなく、結果的に苦肉の策として、費用のかからないWebマガジンに落ち着きます。
Webマガジンの名前は『conscious(コンシャス)』に決まります。毎号60ページくらいで、発行は隔月。今の若い世代には馴染みがないとは思いますが『Flash(フラッシュ)』というブラウザ上で動くファイルを用いて、ページの両端にあるボタンをクリックしながらページをめくっていくものでした。
毎号1〜2個の特集企画があり、音楽系、映画系、建築系などの連載コンテンツがあり、さらに取材記事や外部からの寄稿記事などもありました。取材や原稿書き、編集作業などは、ほぼ僕ひとりで。デザインを担当してくれていたのは主に松尾というメンバーです(デザイナーはその後、ちょこちょこ増えていきました)
仕事でもないのに、アップ直前はいつも松尾とふたりで事務所に泊まり込んで、ページをつくっていた記憶があります。もちろん広告収入などは一切なく、ただの趣味レベル。なぜあんなに頑張れていたのか、今となっては、まったく謎ですね(笑)
よく事故らなかったなと、今となっては
ここからは少し余談ですが、雑誌オタクだった僕が、当時いちばん好きだったのは、今は廃刊となってしまった『SNOOZER』という音楽雑誌でした。
僕は隔月で出るその雑誌が好きすぎて、毎号、かならず発売日に大阪の梅田まで車で行き(実家ぐらしだった僕は、どこに行くにも家の車でした)梅田ロフトの8階にあった『WAVE』というレコードショップでSNOOZERを買います。そして家に帰るまで待つことができず、毎回、車を運転しながら夢中でページをめくっていました(危ない!)
ただ当然それだとしっかりと読めません。早く読みたくて仕方ない僕は、わざと信号にひっかかるようにスピードを調整しながら運転をして、赤信号の間にググっと読み進め、後ろからクラクションを鳴らされて、青信号になったことに気づき、車を発信。また次の信号にひっかかるように運転して……というのが2ヶ月に1回の恒例行事になっていました。それくらいSNOOZERが好きだったわけです。(当時、僕の車の後ろにいた人、すいません!)
さらに余談を進めると、ロフトに行く時には、毎回、決まったタイムズに車を停めていました。その際、いつも「横に打ちっぱなしのカッコいい建物があるな〜」と思っていたのですが、これは後から知りましたが、安藤忠雄さんの事務所だったんですね。
では実際にちょっと見てみましょう!
さて、グルグルと回り道をしましたが、その『conscious』が創刊されたのが2003年12月のこと。つまり来月でちょうど20年を迎えます。そして僕は創刊した瞬間に、雑誌オタクとして憧れだった「編集長」という肩書を得ることとなります。
小学校の時のサッカーチームでのキャプテンから始まり、数々のバンドでリーダーをするなど、わりと“長”となることが多い人生でしたが、いちばん嬉しかった、そして誇らしかったのは、その時かもしれません。という話は、先ほど配信されたメルマガにも書きましたね。
それから20年たった今なお、consciousのファイルは残っています。別に興味がある人はいないと思いますが、それらを少し紹介して今日は終わりにしましょう。このコラムのために、僕も10年以上ぶりに見てみました。
感想は、さっきも書いた通り「お金ももらわずに、なんでこんなに頑張れたのか」ってだけでしたね(笑)。おそらく世の中に対して伝えたいこと、訴えたいことがたくさんあったんでしょう。またとうぜんスマホもブログもSNSもない時代。この少し後に話題になる『R25』などもまだありません。同世代でそんな活動をしている人はあまりいなかったし、友人がメインですが、それなりの反響もあって、ちょっとした優越感や誇らしさがあったんでしょうね。
ということで、記念すべき創刊号の表紙はコチラ。背景に使っている画像は、特集で扱ったブルーハーブというアーティストのライブ中のものですね。
その次の見開き、『from editor』と題されたページがコチラ。そこに書かれている僕の文章も改めて引用してみましょう。
from editor
こんにちは、みなさん。調子どうですか?楽しんでますか?結局はそれに尽きるよね。僕がweivにいるのも、こうやって物を書いてるのも結局それだけやから。
(中略)
何一つ雑誌編集のノウハウの無い中、またあらゆる制約の中で、それでも今できる最高のものができたのではないかと自負している。ウェブマガジンという形になった我々のここ約1ヶ月の成果をじっくり楽しんでほしい。
最初に断っておくが、僕が責任編集するこのconsiousは情報提供メディアではない。ここは“ボスのリリックってマジでヤベー!!”、“あそこで面白いイベントやってるらしいで”、“せっかくやし、音楽以外のアートにも触れてみたいな”、そんな気分の集合体である。
つまり、我々は決してあなたの上には立たない。必要とあらば、今の所僕、雨森武志という名前の上に乗っている“編集長”という肩書きでさえ、あなたに譲る準備が僕にはある。conscious、そしてweivはあなたの積極的な参加が我々が理想とする形の絶対条件なのだ。もう一度言うが、あなたの参加が絶対条件である。言葉にすれば“帰属意識”とでも言うのだろうか。そう、このconsciousはすでにあなたの物である。大きな帰属意識を持って臨んでもらいたい。BBSへの書き込みでもいい。テキストの投稿という形でもいい。イベントへ遊びにきても構わない。あなたの意見、あなたという人間のことを聞かせてほしい。
では一つ一つゆっくり読んでください。そして、各記事があなたにどう映ったか聞かせてほしい。僕にはそれが楽しみで仕方がない。そう、この瞬間が我々とあなたが作る歴史の始まりだ。これから何が起こるんだろう、僕達に何ができるんだろう。とてもワクワクする。そんな気分を少しでもシェアしてもらえたなら、このconscious創刊までに起こった辛かったことの全ては笑顔に変わる。ではどうぞ。
conscious編集長 Takeshi Amenomori/雨森武志
まだ大学生の23歳の小僧が書いたと思うと、なんだか……生意気ですね(笑)
続いて同じ創刊号、「つながりはいつものそこさ、こころふるわす瞬間さ」というタイトルで、毎号の巻末に書いていた僕のコラムも引用してみます。
つながりはいつもそこさ、こころふるわす瞬間さ
さあ、どうだっただろう、conscious創刊号。楽しんで読んでもらえただろうか。おそらく楽しんでくれた人がいれば、一つもコネクトできかった人もいるだろう。それで当然である。当たり前すぎて書くことも躊躇してしまうが、それぞれの“面白い、面白くない”、”かっこいい、かっこよくない”という指標は人の数だけ存在する。最後の所で信頼出来るのは自分のリアリティーと、自分の極周りのリアリティーだけであるはずだからだ。でもどうだろうか。そんな当然のことでさえ、既存のマスメディアと呼ばれるものは見失っていないだろうか。個人の差異をうやむやにしてしまってないか?consciousは客観性の集合体ではない。他人の指標になるつもりもない。つまり我々こそが正しい、なんて考えるメディアはナンセンスなのだ。我々はそのスタンスを守ることをここで強く誓う。
(中略)
つまり、ぶっちゃけた話になるが、僕は好き勝手やらしてもらう。無責任にやらしてもらう。だって今の所は別に広告収入があるわけじゃ無いし、その分自分達で色々辛いことも経験しながらやってるもんね。僕はかっこいいと思ったものはかっこいいと書く。かっこわるいと思ったものも必要とあればかっこわるいと書く。全て責任を持って香く。つまり、”責任を持って、無責任にやらせてもらう。冒頭に書いた通り、我々には様々な制約が付きまとった。雑誌編集に関する知識も何一つ無かった。にも関わらず当初から僕にはある程度面白いものが作れる確固たる自信があった。その根拠はただ一つ。それは自分、つまり雨森武志という人間が持つリアリティーを信じることが出来たからだ。不特定多数の人が見るウェブマガジンとは言え、結局自分が面白いと思うものを自分のリアリティーの範囲で伝えるしかないということを分かっていたからだ。
(中略)
僕の持つリアリティーとあなたが持つリアリティーを重ねあうことが出来ない人もいると思う。consciousはマスメディアにありがちな”公約数”的なアプローチは一切とってないつもりだ。だからそんな場合は今度はあなたの言葉であなたのリアリティーを教えてほしい。言葉を外に発信すること、つまり”あなだ”という人間を外に提示すること、それは言い換えれば“リスク”だ。あなたの発した言葉はすぐに一人歩きするだろう。予想もしなかった摩擦を起こすだろう。でもその時に一切の責任を持てる人、摩擦の生む磁場に積極的に立たんとする人、その磁場でさえ楽しもうと出来る人、そんなあなたの意見を待っている。
(中略)
では、次は年明けに。新しい年がはじまってなんだかワクワクした頃にまた会いましょう。僕は実感できるあなたとの繋がりを感じたい。バーチャルなものじゃなくてね。いい音鳴った時、いい空間に立った時、僕ははっきりと自分以外の人間との繋がりを感じます。そんな気分を加味して、今後僕の書くこの最後のページにはフィッシュマンズの”MAGIC LOVE”から素敵な言葉を頂戴した。僕は忙しいながらもそんな感じで何とかやってます。あなたは最近どうですか?あなたのことを教えてください。じゃ、また。
Takeshi Amenomori/雨森武志
う〜ん、気持ち悪いなぁ……(笑)。無理しているというか、無理に大人っぽく仕上げたいというか……。あと当然ながらめちゃめちゃ文章が下手ですけどね。
それはもう無数のファイルが残っているのですが、もうひとつ紹介しておきましょう。僕は2001年のアメリカのテロで友人を亡くしているのですが、その彼のことを特集で扱った時のものです。画像を貼るだけで読めますでしょうか。文章を引用するのはもう止めておきましょう(面倒なので・爆)。まずは特集のリード文となるページから。
そしてこの号の巻末のコラムから。
無理していると言われればその通りだし、誰にも教わっていないので仕方ないですが、今読んでみると文章の稚拙さは言い逃れようがありません。しかしながら、やはり「伝えたい」というエネルギーがすごくて、その辺りは、プロのコピーライターとして変に“こなれて”しまった今の僕よりも、文章の裏側から言葉にしきれない様々な思いが強く発されているように思います。
他にも本当にたくさんの企画を展開しています。たとえば一般的に流通されている音楽雑誌でもよく見られる「その年のベスト・アルバムを決める」みたいな企画もやりました。
あとこれも余談といえば余談なのですが、実はこの『conscious』と、その母体である『weiv』の活動には、20年たった今、さまざまなジャンルで大活躍しているクリエイターや経営者がたくさん関わってくれていました。その人たちの名前を挙げながら話をするのも面白いかなとも思いましたが、「許可なく」っていうのもどうかなと思って、完全な身内だけにとどめておいた次第であります。
僕の中では、すごくよく言うと、いわゆる『ダウンタウンファミリー』的な、つまり『4時ですよ〜だ』など、大阪のローカルでやっていた下積み時代から一緒にやっていた面々、つまり東野、今田、キム、山崎、板尾、ほんこん(すべて敬称略)……ら全員が、その後、全国的に名を馳せる存在になっている、あの感じにちょっと似ているような気がしてて、少しだけカッコいいなと思っています。「え、あの人も、あの人もweivに関わっていたの?」的な感じですね。僕も彼らに置いていかれないよう、頑張っていかないといけません。
時間というのは、こちらの都合でその動きを止めたりしてくれないもの。あの時の面々で集まって、また何かやれることがあれば、けっこう大きなビジネスになるんじゃないかな、なんて思いつつ、20年が経ってしまいました。
はい、今日はここまで。
当時、心血を注いでつくっていたコンシャスですが、今回あらためて数えてみると、けっきょく発行したのは12回だけだったと分かりました。なんだかんだで1年半ほどの活動だったようですね。
その後、これで得たノウハウを活かし、僕は2回目の編集長となって、同じデザイナーの松尾くんと一緒に、今度はひとつのフリーペーパーに携わることになります。しかしそれもさほど長くは続かず、けっきょくお金がなさすぎて、26歳の時に僕はweivを抜けて就職。そこから3年間のサラリーマン期間を経て、29歳で、独立・上京し、今に至ります。
ちなみに12号だけとは言っても、それぞれに60ページくらい、多いときには80ページはあったので、手探りで、しかも無償で、先ほども書いた通り、原稿書きと編集、ディレクションのすべてをほぼ僕一人で、よく頑張ったと思います。
あれから20年がたった今。仕事として、当時と同じように原稿を書いたり、デザインの指示を出したり、コンテンツの企画をしたり……をやっていることを、タイムマシーンに乗って23歳の自分に伝えたらどう思うでしょうか。今やっていることが仕事になっていることを嬉しく思うのでしょうか。もしくは、「え、ずっと同じことやってるの?」と呆れられるでしょうか。
できれば、夢に満ち溢れた23歳の自分に、今の自分を誇りとともに語れるよう、これからもいい仕事をしていきたいですね。
ではまた。
Editor’sNote
五反田に小さなオフィスを構えるブランディング&クリエイティブカンパニー、アイタイスの代表です。